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経済思想史特論ファイナル・エッセイ 千葉学

200302

 

不足・希少と「経済人」

 

はじめに、ポランニーの『人間の経済』によって、「不足と希少性」と「経済人」について論じる。彼によれば、「「経済的」の第一の意味は形式的であり、目的−手段関係の論理的性質から生じるものである。この意味から「経済的」ということについての希少性の定義が生まれる。第二は実体=実在的意味であって、人間は自分を維持する自然環境なしには存続できないという基本的事実を指ししめすものである」。「実体=実在的な意味は、人間が生活のために自然に明白に依存するということに由来する」。つまり、形式的な意味は、「目的−手段関係から発生する普遍的なものであり、指示される関係は人間の利益に関するいかなる一分野に限定されることもない」。つまり、効用を「最大化」しつつ「手段をできるだけ利用すること」である。他方、実体=実在的意味は「物質的欲求をみたす過程との関連をもつこと」である。すなわち、人間は、自分自身と自然環境とのあいだの相互作用によって「物質的欲求を満たす手段を」獲得するのであり、「人間の欲求がその充足のために物質的なものに依存する限りにおいて、指示される関係は経済的である」。

  そして新古典派経済学は、「経済的」の形式的意味すなわち希少性を公準として確立し、実体的意味は経済学の主流から消え去り、経済学の対象は「物的欲求の充足」ではなく「希少な手段の用途の選択」となった。 しかし、ポランニーによれば、ここで「希少性」の他に、「不足」「選択」という概念を考えなければならない。

 選択は、手段が十分か不足しているかにかかわらず生じる。例えば、道徳的な善悪にかかわる選択や旅人の道程の選択は、手段が不足しているのではなく豊富であるからこそ生じる。したがって、選択は手段の不足を意味しない。

  また、手段の不足は希少性や選択を意味しない。手段が不足しても、手段に複数の用途が存在すること(目的の多様性)、これによって生じる複数の結果のいずれかが選好されること(選好の尺度の存在)、という二つの条件が満たされなければ、選択は起こらない。つまり、手段の不足は、他の要因が加わらなければ希少の状況を生み出さないのだ。

  さらに、希少の状況といわゆる「経済」との関係は偶然的である。すなわち、不足している手段を合理的に使用することによって満足を最大化するという課題は人間の経済に限ったものではなく、チェス競技者が作戦を練る場合や、画家が使用する色彩を決定する場合にも言える事柄である。だから、希少性と実体的な意味における経済との関係は偶然的である。

  したがって、一方で、欲求充足の「物的」性質は最大化の有無にかかわらずに与えられるし、他方で、最大化は、手段と目的とが「物的」であるか否かにかかわらずに与えられるのである。つまり、経済的の二つの意味は全く通約不可能であり、形式的意味は「不足する手段の二者択一的使用における選択」に関わり、実体的意味は選択も不足も含まないのだ。

  このように、不足と希少性は異なる概念であり、いかに手段が不足しても、手段の選択性、目的の多様性・選好の尺度が存在しなければ希少の状態は生じ得ない。しかし、市場経済においては、「文化的に決定される各個人の必要と貨幣の範囲が与えられると、この手段〔=貨幣という購買手段〕はすべての必要を満たすには不足となった」。この結果、「貨幣で購買しうるものが不足であるかどうかは」問題とされなくなった。そして人間は「市場のなかの個人」としてのみ理解され、人間の欲求と必要は「市場のなかではたらく孤立した個人の功利主義的な価値の尺度」の観点からのみ考察されるようになったのであり、このように捉えられた個人が新古典派経済学の「経済人」である。

  したがって、以上のようなポランニー的観点からは、Peat論文が論じたメンガーとワルラスとにおける「経済人」の相違(メンガーの能動的な経済人/ジェヴォンズの受動的な経済人)は、さほど重要なものではない。重要なのはむしろ、「経済人」=「経済的人間」の「人間」がいかなる主体であるか(能動的/受動的)ではなく、「経済」が形式的か実体的かである。これが、経済を「実体的」な観点から考察したマルクススラッファの理論が「理論的反人間主義」(塩沢由典)と呼ばれる所以であろう。

 

「経済人」について:動機・合理性

 

次に古典派と新古典派の経済人概念を、動機・合理性・現実性などの観点から論じる。古典派における「経済人」は利己的に富を求める存在であり、またこの富の追求という動機・目的を合理的に追求するとされていた(以下の古典派の経済人概念についてはBlaug[1992]と佐々木[2002]による)。例えばミルは、経済学における人間(=経済人)の感情・動機を、富の欲求、労働の嫌悪、享楽欲とし、これ以外の動機を捨象した。このような経済人を仮設することによって、富の獲得を動機とする行動に関しての予測・説明をしようとした。他方で、富の獲得以外の動機(攪乱原因)の存在も認め、それらのもたらす影響を考慮しなければ経済学の結論を現実に適用できないとした。だから、ミルにおける経済人は、――現実の多様な動機を捨象されているので――現実の人間(real man)ではなく虚構の人間(fictional man)であった。これに対してスミスの場合、経済人の動機とされた「利己心」は、ミルの「富の欲求」と異なり、非物質的な要素も含んでいた。

 このように、古典派の経済人の構成要素は富を追求するという動機であり、この動機が各論者によって異なっていた。これに対して新古典派においては、動機は問われなくなり、合理性が経済人概念の核心となった。まずマーシャルが、非利己的な動機であっても貨幣によってその相対的強度を測定することが経済分析の特徴であるということを根拠にして、経済人の動機を非利己的動機にまで拡張した。ウィックスティードは、資源配分の問題は生活の隅々まで及ぶということをもって経済的動機という考え方自体を否定した。ついでロビンズがさらに、経済人の構成要素は動機ではなく、複数の選択肢の相対的評価・合理的選択であるとして、新古典派的な考え方を徹底させた。

 しかし、この新古典派の経済人における合理性も決して同質ではなく各論者によって異なっていた。Peart[1998]によれば、ジェボンズとメンガーは共に「経済学的モデル/現実世界」を区別している。経済学的モデルにおいては経済人の「誤り」や「経済外的要因」が存在しないので「経済学的価格」が成立する。これに対して現実世界においては「誤り」などが存在するので価格が「経済学的価格」から乖離する。つまり、経済人の合理性が「経済学的モデル/現実世界」という区別の大きな要因となっている。このようなジェヴォンズ・メンガーに対してワルワスは、理論的関心が均衡価格に集中していたので、経済人の合理性には関心を払わなかった。つまり、ワルワスの研究プログラムの目的は、完全競争モデルの特定(=完全競争条件の下での価格決定)であったので、消費における主観的な価値評価の理論を構築することにほとんど関心がなかったのである。ワルワスとジェヴォンズ・メンガーとのこのような違いは、ワルワスの関心が「経済学的モデル」における価格決定であり、ジェ

ヴォンズ・メンガーの関心が「現実世界」における交換という行為であったということに起因している。

 メンガーは、経済学的モデル(=失策などが、存在しないか、無視されるか、相殺しあうモデル)において、消費者の評価が経済システムを統治すると考えた。市場は「経済学的価格」(=消費者の「正しい」評価を「正しく」反映する価格)に向かう傾向があり、したがって資源配分は、主権を持つ消費者の(正しい)願望を反映する。しかし他方で、そのような価格はつねに存在するわけではないことも強調され、消費者が統御する「経済学的」モデルと現実世界とが、企業家の失策や他の逸脱によって区別される。

 ジェヴォンズもほぼ同様であり、消費者の「気まぐれな」行動のために消費者が効用最大化の理論的条件から逸脱し、価格が限界的評価から逸脱することを認めていた。経済学者が実際に観察する消費者個人の選択は利己心以外の要因にも影響されるので、現実には各個人の選択は気まぐれであり、効用最大化条件は繰り返し侵害される。つまり、一方で、理論的分析は均衡論的であり完全情報を前提し、他方で、現実の取引は消費者の視野の狭さ・不完全情報・性急さ・気まぐれによって影響されることを論じた。

 このように、メンガーもジェヴォンズも共に、消費者は性急で近視眼的であると考えた。しかし、メンガーにおける消費者は意志決定プロセスを能動的に改善し、ジェヴォンズにおける消費者は教育されなければそのような改善ができない。ジェヴォンズとメンガーのこの違いは、(両者とも現実世界における経済人の不完全な合理性を強調するのだが)メンガーの経済人は単に無知であるのではなくその無知を除去しようという点で目的的であるという点に由来する。

 以上のように、大雑把に言えば、古典派の経済人は動機の点で多様であり、新古典派の経済人は合理性の点で多様である、と言えよう。また、経済人概念の現実性・実在性に関しては、古典派の経済人の場合はそれが動機と関連づけられており(動機が多様である方が現実的)、新古典派の経済人の場合はそれが合理性と関連づけられている(合理性が少ない方が現実的)と言えるかもしれない。また、(ジェヴォンズとメンガーのように)「合理性」の他に「目的性・能動性」の如何という点でも分岐が生じたと言える。

 

マルクス・メンガーの貨幣論(1):メンガーの貨幣・経済人・市場

 

マルクスとメンガーの貨幣論は、それが生成論として構想されているという理由によって類似していると一般には見なされてきた(ex.吉沢英成『貨幣と象徴』)。しかし私が考えるに、両者は類似している面も確かにあるが、相違点を考える方が有益である。

 メンガーは貨幣の生成を、自生的・非設計的なものと捉える。つまり社会制度は、私益を追求する諸主体の努力の意図せざる結果であるのだから、制度の理論的理解は、主観主義と構成的方法(=制度を個人的要素に還元することによって理解すること)によってこそ可能になると考えた。(以下のメンガー貨幣論の説明はO'Driscoll,Jr.[1986]による)

 「諸個人は、私益に導かれて、彼の商品を他の販売可能な商品と――たとえその商品を直接的に消費するという目的のために欲求していなくとも――交換するようになる。ある数の財が、特にある時間と場所で最も容易に販売可能な財が、交易において皆に受容されるようになり、他のいかなる商品とも交換可能になる」。

 このようにメンガーにあっては、貨幣商品は、「欲望の二重の一致」問題をその販売可能性を通じて克服するために出現する。貨幣の弁別特性は、それが全ての財の中で最も市場的であることによって共通の交換手段に進化することである。ほとんど全ての取引は貨幣の使用によって遂行されるのだから、貨幣は全ての財の中で最も流動的である。それは、全ての市場において、いわば「販売を目的としている」のである。

 また、メンガー貨幣論は、財の保有ストックに関するヨリ一般的な分析に基づいている(これは、『原理』において「貨幣の理論」よりも「商品の理論」が先立つことから分かるよ)。つまり、経済は、自己充足的な経済から、販売目的の受注生産(=注文を受けてからの生産)へ、さらには販売目的の投機的な生産(=注文を待たずとも投機的に在庫を維持する生産)へと進歩する。この発展に伴って未完成の商品の保有ストックが増加し、最終的な進化段階では、完成した商品のストックさえもが増加する。一旦商品ストックを保有したならば、富の所有者は必然的にそれらストックの市場性ないし販売可能性に関心を持つ。つまり、(エッセイAで論じたように)経済人の知識は不完全であるのだから、諸財の販売可能性は決して均質ではない。だが他方で経済人は単に受動的ではなく目的的・能動的でもあるのだから、市場の不完全性は除去される傾向にある。したがって、メンガーの市場イメージは、――経済人の「不完全合理性/能動性・目的性」という両義性と相即的に――〈不完全ではあるが完全になりつつある市場〉というものであった。

 また、このようなメンガーの貨幣論・市場論は、取引コスト論において近年再発見された問題に焦点を当てていたという評価ができる。諸商品の取引コストは多様であり、取引者は彼の富をヨリ販売可能な商品に投資しようとする。だから諸個人はある商品を、それが単に市場的であるという理由だけで受容するようになる。このプロセスは自己強化的である。すなわち、ヨリ多くの取引者が販売可能な商品を受容すればするほど、それらの受容可能性は増大するのである。

 

マルクス・メンガーの貨幣論(2):マルクスの価値概念

 

次に、メンガー貨幣論をマルクス的観点から批判することを試みる。メンガー貨幣論の構造は、物々交換が可能であることを前提している。つまり諸財は、その販売可能性は様々であり「欲望の二重の困難」という問題があるのだが、逆に言えば欲望が二重に一致しさえすれば交換が成立するということが前提になっている。しかし、欲望が二重に一致しているかどうかは、交換以前に如何にして知りうるのか?言い換えれば、ある財がもたらす効用を、交換してその財を消費する以前に、如何にして知りうるのか、という問題がある。つまりこれが、使用価値と価値の矛盾――価値の実現(交換)と使用価値の実現(消費)の相互前提性――の問題である。結局、直接交換(物々交換)は不可能であるはずである。

 これに対してマルクスは(メンガーと異なり)貨幣の貨幣性の問題を、「売れやすさ」(販売可能性・交換可能性)ではなく「売りたさ」(交換要求)にまで遡行している、と解釈すべきではないだろうか。

 つまり、労働生産物を商品たらしめる属性は価値であり、この意味での「価値」とは、労働生産物が交換を目的として生産されたということを表している。そしてなぜ労働生産物が交換を目的として生産されるかというと、資本制社会は(定義によって)社会的分業から成り立っているからである。社会的分業という条件の下では、「生産をした人間は売るか売らないかを選択する自由などはない。彼は売らなければならないのである」(マルクス)。もし単純商品生産者社会であれば、商品が売れなくても生産者が自分でそれを消費する余地がある。しかし資本制の下では、一旦生産要素を投下してしまえば、商品は必ず売れてもらわなければ困る。なぜなら、販売によって生産要素が補填されなければ破産するからである。

 だから、(貨幣が生成する以前の)商品の価値とは、交換要求の度合のことであり、交換可能性ではないと考えるべきである。そしてこの交換要求を、使用価値という異質性が制約して直接交換を不可能にする。一般に、「使用価値/価値」という関係が「商品/貨幣」という非対称的な関係に「外化」すると説明されるが、「使用価値=異質性」「価値=同質性・交換可能性」には非対称性は存在しないのであるから、この意味においても「価値=交換要求」「使用価値=異質性・交換制約」と考えた方が、非対称性を「使用価値/価値」という次元にまで貫徹できると思われる。

 また、このような商品論の次元での「使用価値/価値」という議論には、単に諸学派の貨幣生成論の整理・検討ということには尽きない、現代的意味があると思われる。すなわち、新古典派の労働市場論(伸縮賃金仮説)に抗するさまざまな潮流があるなかで、たとえばポスト・ケインズ派の一部(剰余アプローチ)には、「労働/労働力」を区別したマルクスの生産論を活かそうとする論者がいる。つまり、労働市場は賃金によって調整されるのではなく、雇用量が階級的に先決されると考えるべきであり、このことを考えるためにはマルクスの「労働の二重性」というアイディアが重要であるという議論である。この二重性とは、労働の二重性(具体的有用労働/抽象的人間労働)、労働力商品の二要因(使用価値=労働の能力/価値=賃金)、必要労働/剰余労働、などである。したがって、このような意味においてもマルクスの商品論・貨幣論の現代的意義があると言える。

 

貨幣の両義性、経済人の両義性

 

以下では、マルクスとメンガー・ハイエクの市場観の共通点と相違点、そして相違点の由来を考察する。(マルクスについてはBrunhoff[1973=1979]、マルクスとハイエクの共通点についてはLavoie[1983]による)

 まずマルクスの市場観の根底には、貨幣についての独特の把握がある。彼は貨幣の3機能(価値尺度・流通手段・価値貯蔵手段)を等しく重視し、かつ、(ケインズとは異なり)貨幣と商品とを明確に区別する。すなわち、貨幣以外の一般商品も場合によっては貨幣の3機能の内の1つを果たしうるが(例えば、ケインズの富貯蔵としての資産、ワルラスの計算単位としてのニュメレール)、貨幣の特異性とはこれら3機能を結合することである。したがって、貨幣は、一方で価値尺度と交換手段として(=循環へ送り込むために)需要される。しかし他方で、価値貯蔵としての(=循環から引き上げるための)貨幣保有欲求も、貨幣需要と分かちがたく関連している。マルクスにあっては、この退蔵-放出(hoarding-dishoarding)という二重の性質が、貨幣と一般商品とをはっきり区別する。つまり、マルクスにとって、貨幣退蔵は貨幣経済の理論的に重要な特徴であり、通常の状態では、退蔵-放出の意志決定(=ある者の貨幣退蔵と別の者の貨幣支出)はほどほどに均衡する。マルクスの市場観は、均衡なき秩序である。

 マルクスの市場観は以上のような貨幣観によって裏付けられている。つまり、資本制的市場は、@生産の無政府性、A購買-販売の分離、B生産サイクルが貨幣形態の資本で始まり且つ終わること(MC…P…C'M')、これら3点によって特徴づけられる。この市場観は、オーストリアン的にいえば、切り離された意志決定主体の部分的調整のシステムであり、マルクスは意志決定主体相互の「疎外」を、調整の欠如の源泉として捉えたのである。すなわちマルクスはいかなる市場制度によっても完全には除去しきることができない短期における調整の持続的な欠如を強調した。多くの切り離された私的所有者が、諸計画相互の不可避的な衝突を事前には意識しないままに、独立に時間の中でさまざまな生産計画に資源を投下するのであるから、経済は必然的に不均衡状態にあらざるをえない。かといって、市場は全くのカオスではなく、疎外による調整の欠如は、諸制度(信用機構など)によって(全面的には克服されえないが)幾分緩和される。つまりマルクスにおける市場は、「完全にカオス的なのではなく、その調整が暴力的であり事後的にのみ作動する」のである。「商品生産は、全くのカオスでもなければ完全に調整された均衡でもなく、ハイエクの所謂「自生的秩序」である。この秩序は、「均衡化プロセスequilibrating process」と呼びうる」ものである。

 そして、このような動態的=不均衡的な市場は、先に述べた貨幣によって成り立っている。ここにおける貨幣の役割は二重である。つまり貨幣は、その支出(dishording)によって「市場において秩序を乱暴に創設する均衡化プロセスの構成要素」であると同時に、その退蔵(dishording)によって「完全な調整の持続的・必然的な欠如」を反映するのである。このようなその二重性によって動態的な市場を成立させる構成要素というマルクスの貨幣の把握の仕方は、流動性選好の増大を「経済の適切な働きへの障害」としてしか捉えることができない貨幣理解とは、全く対照的である。

 このようにマルクスの貨幣観・市場観は、オーストリアンの動態的な市場観と共通する面を持っている。それは、市場を全くの均衡でもなければ全くの不均衡でもない「不断の不均衡の不断の均衡化」(宇野弘蔵)と把握するということである。また、このような両者の市場観の根底には、(メンガー貨幣論を論じた際に指摘したように)古典派・新古典派と異なり、資本制の下での生産者は財を販売目的で投機的に生産するという理論的把握があるとも言えよう。

 しかし、当然に両者(マルクスとメンガー・ハイエク)には相違点がある。それは、一方でマルクスは、市場の動態性を、貨幣の両義性(退蔵/放出という二重の性質)から導いており、他方でメンガー・ハイエクは経済人の両義性(不完全知識/能動性)から導いているということである。

 すなわち、(メンガー貨幣論の検討の際に論じたように)メンガーにおける経済人は、知識・合理性が不完全であるのだが、単に無知であるのではなくその無知を除去しようという点で目的的・能動的である。また、この経済人の「不完全合理性/能動性」という両義性から、市場の「均衡化/不均衡化」という両義性が導かれる。すなわち、一方で経済人の知識は不完全であるのだから諸財の販売可能性は決して均質ではないのだが、他方で経済人は単に受動的ではなく目的的・能動的でもあるのだから、市場の不完全性は除去される傾向にある。

 したがって、結論として次のように言えるだろう。マルクスとメンガー・ハイエクは共に、市場をその「均衡化/不均衡化」という両義的な動態性において把握した。しかし、このような市場観を、マルクスは貨幣の「退蔵/放出」という両義性によって導き、他方メンガー・ハイエクは経済人の「不完全合理性/能動性」という両義性によって導いた。

 

市場と知識

 

  最後に、市場と知識の問題を論じる。Lavoie[1991]

は、市場は分散した知識の発見・伝達のための手続きであり、競争的市場システムこそがは非分節的な知識を利用することが可能であると主張している。つまり生産の現場に分散している重要な知識は非分節的であり、市場こそがこの分散した知識を分節せずとも整理して利用できるのである。

 新古典派や市場社会主義のような合理主義的な市場理解においては、各意志決定主体は自分の生産関数を「知っており」、最適な生産プロセスは諸個人によって理性的・合理的に決定されるとされている。これに対して進化論的な市場理解においては、「究極的な合理性」は非分節的な社会的プロセスのなかに位置づけられている。

 ラヴォイは、非分節的な知識と分節的な価格メカニズムとが、ともに重要であると論じる。生産方法などに関する知識は現場に分散しているのであり、現場にコミットしていない者(中央計画局/「オークショニア」)はそれを知ることは原理的にできない。他方、分節的な価格メカニズムだけが、不経済な生産方法を除去し、膨大な生産方法の数を縮減できる。つまり、この非分節性(知識)と分節性(価格・市場)は、共に不可欠なものとして把握されている。

 この分節性と非分節性との関係は、科学哲学を参照しつつ「科学においてヨリ不適切な信念を除去する際に論争が果たす役割は、市場においてヨリ不経済な生産方法を除去する際に競争・損益計算が果たす役割に、相当する」とも論じられている。

  このような分節性と非分節性の関係は、科学哲学においては、ポパーの反証主義という科学方法論(規範的)とポランニーの「個人的知識」論という科学社会学(実証的・記述的)との関係に相当する。ポパーの反証主義は「正当化の文脈」に関わり、ポランニーの「個人的知識」論は「発見の文脈」に関わる。

 このような科学論上の二つの立場の関係を、Blaug[1992]は次のように整理している

 健全な科学実践に関する判断基準を前もって持たずにあるがままの科学史を記述することは、帰納法的な誤謬に陥ることを意味する。科学史を記述することは、必然的に、科学的説明の本質に関する特定の観点から為さざるを得ない。つまり、科学史に関する全ての言明は、方法論負荷的である。また、逆に、科学方法論に関する全ての言明は、歴史負荷的である。科学的方法の美点を説くことは、もしが現在や過去の科学者がその方法を実践したかどうかを全く無視して為されるのであれば、きわめて恣意的である。したがって、方法論に全く依存しない純粋に記述的な科学史も、非歴史的で純粋に規範的な科学方法論も、ともに不可能であり、科学史と科学方法論との悪循環は不可避であり、逃げ道は存在しない。この悪循環は、ラカトシュの格言、「科学史なき科学哲学は空虚であり、科学哲学なき科学史は盲目である」によって示されている。

 このBlaugの議論の「科学史」ではなく「科学社会学」、「クーン」ではなく「ポランニー」と読み替えれば、われわれの議論にそのまま当てはめることができるだろう。知識の「発見の文脈」(=生産)においては非分節的で人格的・個人的(personal)なコミットメントが不可欠である。他方、そのようにして生み出された知識の「正当化の文脈」においては、分節的な判断基準(価格・利潤)が不可欠でありこの基準によって無益な生産方法が除去されねばならない。だから、分節的な価格と非分節的な知識は、原理的な緊張関係にあり、共に市場の機能にとって不可欠なのである。

 

【参考文献】

Lavoie,D.[1991]  “The Market as a Procedure for Discovery and Conveyance of

Inarticurate Knowledge”in Wood,J.C. & Woods,R.N. (ed.) Friedrich A.Hayek:

Critical AssesmentsW,Routledge

Lavoie,D.[1983]  “Some Strengths in Marx's Disequilibrium Theory of

Money”, Cambridge Journal of Economics,7:1,

Peart,S.J.[1998]  Jevons and Menger Re-homogenized?: Jaffe After 20

Years”, American Journal of Economics and Sociology, 57-3

O'Driscoll,Jr.,G.P.[1986]  “Money: Menger's Evolutionary Theory”, History

of Political Economics, 18-4, 1986

Brunhoff,S.de[1973]  La monnie chez Marx(2nd ed.),Editions

Sociales[1979]河合正修訳『マルクス金融論』日本経済評論社

佐々木憲介[2002]  「古典派の経済人概念」『経済学史学会年報』, 41

Blaug,M.[1992]  The Methodology of Economics: Or how economists explain(2nd

ed.), Cambridge, Cambridge University Press